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栗原類著『発達障害の僕が輝ける場所をみつけられた理由』を読む(第1回)

本栗原類という青年を初めて見たのは、「キンチョー蚊取線香」のテレビコマーシャルだった気がします。蚊取線香のスプレーのノズルを激しく押して、死んでいく蚊を平然と見送る、というようなシチュエーションだったかと思います。あれからもう5~6年経っているでしょうか。この本の表紙の類の写真を見て、思わず「あの時の表情と同じだ」という感慨を持ちました。

類はこの本の中で、いきなり自分をADD(注意欠陥障害)であると告白しています。全体としては、ADDである彼がいかにしてその障がいと闘い、モデルや俳優として自立していったかという自伝になっています。

私の5~6年前の第一印象を裏づけるように、彼は次のように告白しています。

<僕はよく無表情だといわれます。楽しい時も楽しそうに見えないし、うれしい時にもうれしそうには見えません。他者とのコミュニケーションをとるうえで、うれしそうに見えない、楽しそうに見えないというのは大きな欠点となります。>

類はイギリス人の父と日本人の母との間に生まれ、生後すぐに母子2人で日本に戻っています。1歳になって日本の保育園に入りますが、彼はそこでの生活にあまりなじめなかったようです。多分母親の強い意志に促されてのことでしょうが、まもなく彼は「ベビーモデル」の仕事を始めることになります。5歳になって渡米した彼は、ニューヨークの保育園に通うことになります。小学校時代は日米を行ったり来たりして、両国の小学校生活を経験するのですが、

<僕は昔から衝動性が激しい子で学校の子たちと喧嘩をしてしまうことが多くありました。(中略)バカにされたり、母や友達の悪口を聞いたりすると、思わずその人を押し倒したり、噛みついたりしようとしてしまいました。>

日本とアメリカで受けた教育の落差はかなり大きく、日本での授業中英語でひとり言を言ったりすると「アメリカに帰れ、英語人」と、みんなからバカにされ、ファッションが少し派手だということで、やはり仲間から攻撃されたりしたようです。結局中1の時のいじめが原因で不登校になってしまい、あとはお定まりのように、「ネットとゲームにはまり動画を作る毎日」が日常化してしまいました。しかしお母さんは、そうした類の生活を一切批判したりはしませんでした。それどころか、

<ゲームやネットに膨大な時間を使っている依存症的な症状よりも、「そこまで好きなのにどうして誰よりもクオリティの高い動画を作ってみたいと思わないのか、どうして映画作りで試行錯誤しないのか」>

を母は問題にしたようです。類はそうした母について、次のように考えます。

<そういう考え方をしてくれて感謝していますが、僕の母は普通の親とは違う視点でものを見る変わった人なんだと>

このあと彼の自伝はモデルや俳優となっていく自分を丁寧に追いかけますが、この続きは次回で。