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藤原新也著『大鮃(おひょう)』を読む

大鮃今となっては遠い昔になってしまいましたが、1970年代を中心に、いわゆる「ノンフィクション」と言われる文学ジャンルが大変な隆盛を誇ったことがあります。若い方々にその作者名を尋ねたところ、大半の人が知りませんでしたから、ひょっとするともう歴史上の出来事になってしまっているのかも知れません。
そのノンフィクションというジャンルで、言うところの紀行文学の代表格が今回の藤原新也であり、ゆくゆく取り上げようと思っている沢木耕太郎でした。
この二人に共通しているのは、世界中どこでも全くものおじせずに歩きまわり、その地の空気を巧妙に切り取ることにたけている、という点でしょうか。藤原の代表作は『印度放浪』や『西蔵(チベット)放浪』などのいわゆる「放浪もの」であり、沢木といえば、『深夜特急』シリーズが有名です。私の印象では、沢木は都会派のセンスを色濃く宿しており、藤原はインド、チベットを描くにしても、また東京のどまん中を描くにしても、その国や土地土地が持つ深い闇を描くことに巧みでした。
さて『大鮃(おひょう)』はそんな藤原の最新作で、しかもノンフィクションというジャンルではなく、まさに小説そのものといえます。小説のストーリーを言ってしまっては元も子もありませんが、簡単に言えばヘミングウェイの『老人と海』の現代版だと言っても、そんなに大きく間違ってはいないと思います。
主人公の太古(たいこ)は、今では40代前後の中年男で、妻もあり子供もいる身ですが、青年期には父の自殺という事件もあって、精神科医のカウンセリングを受けながらかろうじて生きつづけているという存在でした。
太古の父は、スコットランド最北端にあるオークニー諸島の生まれで、そこで日本の女性(太古の母)に出会い、日本に来て結婚したという歴史を持っていました。太古にとって死んだ父はすべてが謎で、その父の死と謎の生が、太古に息苦しく「心の弱い」青春を送らせていたのでした。
ある日太古は、父の生まれ故郷であるオークニーを旅することを思いたち、彼としては人生初めてという思いきった決断をしたのです。その後の様々な紆余曲折は省くとして、太古はついにオークニーに到着し、そこで運命の老人に出会うことになります。
ホテルのロビーで待ち合わせ予定の現地案内人である老人(マークさん)は、まるでホームレスのようにうす汚れたコートを着こんでロビーに寝ころんでいました。

<そのとき、遊んでいた幼児の大きな叫び声で目の前の老人がぼんやりと目を覚ます。そして太古の存在に気づき、寝起きの赤らんだ目で太古の風体をしげしげと眺めている>

というありさまでした。
さてこの後の一連の冒険譚(ストーリー)ははしょらせて頂き、いよいよこの旅の最大の目玉である「お鮃釣り」に出かけることになります。お鮃というのは、海底深く(500~600メートル付近)に這いつくばるようにして生息するカレイのバケモノのような大魚(2~3メートルの大きさ)のことです。
マークの古漁船に乗せられ霧の中を漂うこと数時間、太古はあたかも神からの啓示のように死んだ父の声を聞いたのです。

<「海を見ろ」と言った父の言葉が思い出された。
・・・目の前の世界と交われ。
マークも父も、そんなことを教えてくれているのかも知れないという思いがよぎる。>

長い試行錯誤の果てに、太古のロッド(竿)に大きな反応がやってきました。

<畏れの感覚と無力感が襲ってくる。
手がブルブルと震えはじめる。
心臓は高鳴り、呼吸がさらに荒い。
酸欠による過呼吸がはじまっているらしい。
手の震えが全身に伝わりはじめる。
全身が他人の体のように震えている。
最後の力を振り絞り、全身に力を込め、ロッドを持ち上げようとする。
その時、不意に意識が遠のく。
目の前に白いベールがかかる。>

<(太古は)マークを見る。
マークの横顔のライン(つり糸)の傷跡が見える。
「グレート・ハリバット(大鮃)です」
マークはつぶやく。
「・・・グレート・ハリバット?」
「そう、グレート・ハリバット。この世の父です」
「それがなぜ?」
マークの顔にわずかな笑みが宿る。
「・・・あなたに逢いに」
「・・・僕に逢いに?」>

果して太古とマークの壮大な大鮃釣りは失敗に終わり、物語は大方の読者に嘆息をもたらして終局を迎えるのでした。
藤原新也はこの作品の完成後、ある編集者のインタビューに答えて、日本社会に拡がるいわゆる「父性の喪失」傾向にズバリ切りこんでいます。

<今日本人が、日本全体が、父性というものを失っているけど、父性というものを見直してほしい。(中略)日常生活の隅々に父性否定みたいな感覚が浸透している。父性の強さよりも優しさを求める。>

藤原がここで言っているいわゆる「父性」というものは、短絡的にすぐ「父親の存在」のことなのかと思うと、少し違っているのではないか。単純に「父親の存在」のことなら、彼はわざわざ「大鮃釣り」を持ち出すまでもなかったでしょう。藤原の一連の著作になじんだ者なら、彼の言う父性とは、悠久のガンジスの流れや、人間の流入を拒み続けるチベットの山岳大地がまさに父性そのものであり、幻の大魚「大鮃」の存在そのものが父性だと言えるのかも知れません。