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村田沙耶香著『コンビニ人間』を読む

コンビニ人間平成28年度上半期の芥川賞に決まった村田沙耶香さんの『コンビニ人間』がとても面白かった。この小説が初めて掲載された「文芸春秋」9月号(平成28年)には、選考委員の方々の短い書評が載っていますが、私の感想はそれらのどの批評とも異なっていました。

作者の村田さんは受賞後のインタビューで

<主人公と私は、全く違いますね。私は一から人物を作らないと書けないので、モデルはいないです。>

と語っています。全く新規に造型された人物像だとしますと、そのリアルさには舌を巻くしかありません。ところが、作者は自分自身も長い間コンビニでアルバイトをしており、

<コンビニでは、マニュアルを覚えたり、しっかり声を出したりして頑張れば、その分だけ認めてもらえました。内気で何をやらせても不器用だった私が、バイトを通して初めて世界に溶け込めた気がした。>

という記述は、作者と主人公は「全く違う」という作者の言い分は言い分として、本質的なところでは、主人公は作者の分身であると言っても良さそうに思えます。

さて、私がこの小説で最も魅かれたところは、「内気で何をやらせても不器用だった」主人公が、なぜコンビニにおいては店長をも上回る労働者に成りえたのか、という視点でした。この点については、次のような作者の象徴的な表現があります。

<大学生、バンドをやっている男の子、フリーター、主婦、夜学の高校生、いろいろな人が同じ制服を着て、均一な「店員」という生き物に作り直されていくのが面白かった。その日の研修が終わると、皆、制服を脱いで元の状態に戻った。他の生き物に着替えているようにも感じられた。>

<そのとき、私は、初めて、世界の部品になることができたのだった。私は、今、自分が生まれたと思った。世界の正常な部品としての私が、この日、確かに誕生したのだった。>

<なぜコンビニエンスストアでないといけないのか、普通の就職先ではだめなのか、私にもわからなかった。ただ完璧なマニュアルがあって、「店員」になることはできても、マニュアルの外ではどうすれば普通の人間になれるのか、やはりさっぱりわからないままなのだった。>

眠れない夜でも

<朝になればまた私は店員になり、世界の歯車になれる。そのことだけが、私を正常な人間にしているのだった。>

この「世界の歯車になれる。そのことだけが私を正常な人間にしている」という主人公の感覚は、表現の違いこそあれ、通信制高校に通う何人かの生徒から聞いた覚えがあります。

例えば、A君は小学校高学年になってから何となく友達と関係が作れず、不登校気味の生活を送っていました。中学に入って、スポーツ系のクラブに所属しましたが、そこでも友人との関係がぎくしゃくしてしまって、結局そのクラブにも行けず、中学校も不登校になってしまったのでした。彼が何度か教室でもらした言葉に、「俺はどこにも所属できない」というのがありました。

彼は今コンビニで元気に楽しくバイトしながら本校に通っています。学校の方はよく遅刻していますが、コンビニのバイトは無遅刻・無欠勤だと言います。バイトに遅れそうになった時の彼の口癖は「セブンが待っている!!」ですから、彼もまた『コンビニ人間』の主人公のようにコンビニの中では「世界の歯車になれている」のかも知れません。