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斎藤環著『社会的ひきこもり 終わらない思春期』を読む(第3回)

では、こうしたひきこもりから脱け出させるには、いったいどうしたらいいのでしょうか?

(ちなみに、本書とその兄弟書籍ともいうべき『ひきこもりはなぜ「治る」のか?』も参照させて頂いています。)

斎藤先生の主張は一貫しています。学校を不登校になり、ひきこもってしまった子どもに対しては、

<「再登校か非か」が問題ではないということです。再登校させるべきかどうかは問題ではない。それでは何が問題か。「どうすれば、子どもが元気になるか」こそが問題なのです。つまり、治療や支援の目標は「元気」なのです。>

<「不登校を何とかしなくちゃ」と思いながらかかわるよりは、「どうすれば元気になるか」という問題意識をしっかりもってかかわる方がずっと実りが多いのです。>

具体的に親は子どもにどう接していけばいいのでしょう。

<親がもし子どもにしてほしいことがあるのなら、そのことをなるべく口に出さないことです。家族が本人に対してやれ働けの、学校へ行けの、社会参加せよと命令するのは意味がありません。むしろ逆効果です。そういう家族の欲望を直接本人に押しつけようとしても、本人はひたすら拒否するだけでしょう。>

<家族がまず「一番いいたいこと」を禁欲することは、そういう意味で有効なのです。家族が一番いいたいこと(「就職してほしい」「社会復帰してほしい」など)は、実は本人も一番実現したいことであることが多いのです。ずっと一つ屋根の下で暮らしているのですから、そこら辺はもう通じすぎるほど通じてしまっています。>

ひきこもりからの脱出には、何かきっかけになること(もの)があるのでしょうか。斎藤先生はここで、ズバリ本質に迫ります。

<ひきこもっている人が自分の欲望をしっかり認識し、それを行動に移したければ、家から出て他者と交わっていくしかありません。ですから私の考えでは、ひきこもりの人が現状から抜け出そうと思うなら、最初の課題は「仕事」ではありません。まず他者に出会うことからです。>

<青年期において、自分を無条件で支持してくれる人が一人でもいるということが重要とされます。これは家族でも恩師でも親友でもいいわけですが、そういう存在があるかないかで、人間に対する信頼度がまったく違ってくるのです。>

具体的にはどんな「他者」がいいのでしょうか。

<たまにしか会わないけれども、会えばいろいろな話は聞いてくれるし、自分のことを一切責めないような、そんな立場の人がそばにいてくれたら>

とても良いと先生は言います。そこで最後に家族の方に先生が一番言いたかった一見予想外なフレーズを掲げておきます。おそらく先生は、このことを言うためにたくさんの本を書いているのかも知れません。

<家族には、本人に対して安心をもたらす他者であり続けてほしいのです。逆に「追いつめれば自立するかも」という思い込みから無用な不安をもたらすことは、社会参加を大いに妨げます。>

<家族が与えられる安心は、衣食住の安心でもあり、心理的な安心でもあり、家族関係の安心です。差し当たりはあなたを見放さない、見捨てないという安心感を与えてあげなければ、本人はそこを土台として外に打って出ることすらできないでしょう。>