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菅野仁『友だち幻想』を読む

友だち幻想1この本は初めに、日本青少年研究所が高校生を対象に行った、「若いうちにぜひやっておきたいことは何ですか」というアンケートの結果から紹介されています。その調査は、日本、アメリカ、中国、韓国の高校生を対象に同時期に実施されたものだそうです。それによると日本の高校生は、「一生つきあえる友人を得たい」とか「いろいろな人と付き合って人間関係を豊かにしておきたい」と答える人がかなり高い割合になったと言います。
そして著者は、同じ日本の高校生が別の問いに対しては、「偉くなりたいとは思わない」「そこそこ生活できればいい」と答えていて、他の3国の高校生との間に際だった違いを見せている、とも述べています。
このアンケート結果が果して何を意味しているのかは、そう簡単に結論づけられそうにはありません。日本の高校生は自立性に欠けていて、他人への依存性が強いのかな、とも思えますし、後者のアンケートでは、日本の高校生は大きな野望が欠けているのかな、とも思えてきます。
著者はこうした日本の高校生の志向様式を、いくつかの角度から分析しています。そのうちの一つに、日本の学校にありがちな、「友だち幻想の強調」がありそうだと見なしています。
その部分を引用してみましょう。

<(日本の)学校というのは、とにかく「みんな仲良く」で、「いつも心が触れ合って、みんなで一つだ」という、まさにここで私は「幻想」という言葉を使ってみたいのですが、「一年生になったら」という歌に象徴されるような「友だち幻想」というものが強調される場所のような気がします。>

ここから著者特有の次のような分析が始まるのです。

<組織、集団といったいろいろな単位の人間関係を考えるときに、「ルール関係」と「フィーリング共有関係」に分けて考えると、お互いどういう距離をとれば心地よいのかが、考えやすくなる>

そこで著者は、組織における「ルール関係」と「フィーリング共有関係」を分けて考え、いわばフィーリング共有関係からルール関係への転換を訴えています。ところで、「フィーリング共有関係」とはそもそもどういうイメージなのでしょう。著者はそれを、次のような教育現場の先生方の声として紹介しています。すなわち、

・まずは「いじめゼロ」を目指そう。
・「それにはみんなで一つになって」
・「人格教育に力を入れて、心豊かな子どもたちを育てたい」
・「みんなで心を通い合わせるような、そんな豊かなクラスを作っていきたい」

著者は教育現場の先生方の上のような感覚(これがいわゆる「フィーリング共有感覚」)にかなりの違和感を感じています。そして、大人の社会では理屈を超えて、「こいつとはどうしても合わない」という人間関係が多々あるはずで、

<大人になってからは、みんな誰もがそういう体験をしているはずなのに、「子どもの世界はおとなの世界とは違う。子どものころはどんな子どうしでも仲良く一緒になれるはず」というのは、子どもの世界にあまりにも透明で無垢なイメージを持ちすぎなのでは>

と言っています。そして、

<いまの学校という場は、もうそうしたフィーリング共有性だけに頼るわけにはいかない。「ルール関係」をきちんと打ちたててちゃんとお互いに守るべき範囲を定めて、「こういうことをやってはいけないんだ」という形で、現実社会と同じようにルールの共有によって、関係を成立させなければならない場になっている>

では、大人の社会にはあって学校の中ではあまりかえりみられないルールとは何なのでしょう。著者はそれを「盗むな、殺すな」という原則である、と言っています。

<「盗むな、殺すな」という社会のメンバーが最低限守るべきであると考えられているルールは、「よほどのことがない限り、むやみに危害を加えたりせず、私的なテリトリーや財産は尊重しあいましょう、お互いのためにね」という契約なのです。>

<「自分の身の安全を守るために、他者の身の安全をも守る」という、実利主義的な考え方も、ある程度学校にも導入したほうがよい。(中略)「人を殺さない、人から盗まない」というルールは、「人に殺されない、人から盗まれない」ことを保障するために必要なものだ>

「盗むな、殺すな」というルールが大切だと言われると少し大げさな気もしますが、これを煎じつめて言うと、「こちらも一線を越えて攻め込まないので、そちらからも一線を越えて入りこまないでくれ」ということになりましょうか。あるいは取りようによっては「やたらに群れたりしないで、個としても存在を認め合う」ということにもつながっていくのでしょうか。