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吉野源三郎著『漫画 君たちはどう生きるか』を読む

漫画君たちはどう生きるか

今や新聞に1頁広告が出るくらいですから、とてつもないベストセラーになっているようです。漫画だけで100万部、原作も含めると130万部を越えるというからすごい。私も10代の頃に原作を読んだ記憶がありますが、かなり難解だったという思い出しかありません。

原作者の吉野源三郎さんは明治32年(1899年)生まれの編集者で、岩波書店の雑誌「世界」の初代編集長だった、と本の帯にあります。

物語は比較的単純で、著者の分身と思われる「おじさん」が、主人公である中学生の「コペル君」(彼のお母さんが「おじさん」の姉にあたります)から様々な悩みを聞き出し、これに答えるという形式をとっています。

今の時代からみると、このおじさんはコペル君にとっては一種神的な存在として描かれています。というのは、今でももちろん無数に存在しているであろうコペル君たちにとって、こうしたおじさんの存在が果してありうるかという素朴な疑問がまず湧いてきます。

物語の中では、コペル君のお父さんが数年前に亡くなった時、おじさんにコペル君のその後の面倒を頼み込む場面があります。おじさんはコペル君のいわば後見人的存在だったのかもしれません。

おじさんの考え方を象徴する文章(おじさんの教えはいつもノートという形でコペル君に伝わっていきます)は「ものの見方について」というノートで明らかです。コペル君の最初の疑問は、彼が学校で習った分子の構造についてです。

コペル君の質問は、物質の基本を構成している分子の事だったのですが、おじさんの話はいつか、人間社会を構成する一人一人の存在へと発展していって、こう展開されていきます。

<一人一人の人間はみんな、広いこの世の中の一分子なのだ。みんなが集まって世の中を作っているのだし、みんな世の中の波に動かされて生きているんだ。(中略、このあと「コペルニクス地動説」について説明したあと)人間が自分を中心としてものを見たり、考えたりしたがる性質というものは、これほどまで根深く、頑固なものなのだ。>

コペル君の悩みはその後、友人との間のトラブル問題まで発展していきます。コペル君と親しい友人の一人が豆腐屋の息子だったため「あぶらあげ」くさいと仲間からバカにされる場面があります。いじめている子がケンカの強い子だったため、まわりの仲間はだれ一人それをとがめたりしません。それをいいことにそのいじめっ子はますます増長し、いじめを続けていくのです。

ある時一人の仲間が立ち上がって、そのいじめっ子に抗議するのですが、いじめっ子は反対にその子に対して暴力を振い、一蹴してしまうのでした。コペル君もその一連の出来事を目の当りにしているのですが、ついに一言の抗議すらできず、結果的にいじめる側に立ってしまったのでした。

ところがいじめられていたはずの「あぶらあげ」君がその場面で立ち上がり、そのいじめの張本人を「許してやってくれ」といってみんなに頼み込むのでした。

コペル君のこの悩みについておじさんは、直接的に「こうしろ」というのではなく、やや遠まわしに、こう説き始めました。

<いいことをいいことだとし、悪いことを悪いことだとし、一つ一つ判断をしてゆくときにも、また、君がいいと判断したことをやってゆくときにも、いつでも、君の胸からわき出てくるいきいきとした感情に貫かれていなくてはいけない。>

こうしておじさんのノートには、人間の生き方の基本のような説明がくりされていますが、「何事ももっと自分自身で考え、そして行動していけ」という意志で一貫しているように思います。